『藪の中』あらすじとネタバレ感想!芥川竜之介の代表的な短編小説
大正期に活躍した「新思潮派」の作家、芥川竜之介の代表的な短編小説。初出は「新潮」[1922(大正11)年]。短編集「将軍」[新潮社、1922(大正11)年]に収録。検非違使の尋問に答えた旅法師らの供述と当事者である「多襄丸」の陳述など、複数の人間の証言からなる形式で殺人事件の真相にせまる物語。「今昔物語集」巻二十九第二十三「具妻行丹波国男 於大江山被縛語」を原典とする。発表当時から現在まで実に多くの関心を寄せられているが謎の多い名作。
Amazon商品ページより
森見登美彦さんの『新釈 走れメロス 他四篇』がきっかけとなって本書を読むことになりました。
『藪の中』という言葉の語源になった物語で、最後まで真実が何なのかが分からない未完結性から多くの議論が交わされています。
一つの事件に対する、七人の目撃者や当事者から検非違使(裁判官)への証言で構成されており、いくつもの矛盾をはらんでいます。
結論は未だにでていないため、それぞれが自分なりの考えを持ちながら読む楽しさがあります。
この記事では、本書のあらすじや個人的な感想を書いています。
ネタバレになりますので、未読の方はご注意ください。
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あらすじ
本書では七人の語り手によって、物語が次第に浮かび上がるよう構成されています。
しかし人によって言うことが異なり、事実が何なのか分からないのがポイントです。
ここでは矛盾を気にせず、七人の言葉をそのまま書いています。
木こり
木こりはいつものように裏山に向かい、山陰の藪の中で男の死体を見つけます。
太刀は見ておらず、死体の周辺にあったのは縄と櫛が一つだけ。
また藪の中は馬が入れる場所ではなく、馬も見ていません
旅法師
旅法師は死体の男と昨日会っていました。
男は馬に乗った女と一緒で、太刀や弓矢を携えていました。
放免
放免(検非違使のしもべ)が捕まえたのは、多襄丸(たじょうまる)という名高い盗人でした。
捕らえた時には、多襄丸は石橋の上で馬から落ちたのかうんうん唸っていました。
多襄丸は太刀や弓矢を携えており、近くには馬もいて、全て死体の男が所持していたものと一致します。
女がまだ見つかっていないこと、多襄丸が女好きであることから、多襄丸が死体の男と一緒にいた女をどうにかしたのではと推測します。
媼(おうな)
死体の男は若狭の国府の侍・金沢武弘で、一緒にいた妻の名前は真砂。
嫗の娘でした。
多襄丸
多襄丸は武弘の殺害を認めるものの、真砂はどこかに行ってしまったと証言します。
流れは以下の通り。
多襄丸は二人を見かけて、例え武弘を殺害しても真砂を奪おうと決意。
山の陰の藪の中に鏡や太刀を埋めてあるから、欲しければ安い値で売り渡すと二人に持ち掛けます。
すると武弘は多襄丸についていくことになり、真砂は馬に乗ったまま待つことになりました。
多襄丸は武弘の不意を打って襲い掛かると、一本の杉の根に括りつけて口を竹の落ち葉でふさぎます。
それから真砂の元に戻り、武弘が急病だから見に来てほしいと嘘をつき、藪の中に連れていきます。
真砂は武弘が縛られているのを見ると、すぐさま懐から小刀を引き抜いて多襄丸に襲い掛かります。
多襄丸は何とか太刀を使わずに真砂の小刀を打ち落とし、武弘の命を取らずに彼女を手ごめにします。
ところが真砂は急に叫びだし、二人の男に恥を見せるのは死ぬよりも辛いから、どちらかが死んでくれ、生き残った男と連れ添うと言い出します。
多襄丸は真砂の言葉でますます彼女のことを妻にしたいと思う一方で、卑怯な殺し方は望んでいませんでした。
武弘の縄を解くと、お互いに太刀を持って戦い、激戦の末、多襄丸が武弘を殺害します。
多襄丸は事を終えて振り向きますが、真砂はどこかに消えていました。
助けを呼びに行ったのかもしれないと思った多襄丸は、武弘の太刀や弓矢を奪うと残された馬に乗って逃げたのでした。
清水寺に来れる女の懺悔
真砂は多襄丸に手ごめにされた後、縛られた武弘のもとに走り寄ろうとしましたが多襄丸にそこへ蹴倒されます。
その時、真砂は武弘の目の中に、何ともいえない輝きが宿っていることを覚ります。
それは真砂を蔑んだ冷たい光で、彼女は何か叫んで気を失ってしまいました。
気が付くと多襄丸はどこかに消えていて、武弘は縛られたままでした。
しかし、彼の目の色は変わりません。
真砂は武弘ともう一緒にいられないこと、一緒に死んでほしいことを伝えました。
それでも彼の様子は変わらず、落ち葉を詰まらせたままの口で『殺せ』とだけいい、真砂は持っていた小刀で彼を刺します。
その後再び気絶し、再び気が付くと武弘は縛られたまま死んでいました。
真砂は泣きながら縄を解きますが自殺するだけの気力はなく、寺に駆け込んだのでした。
巫女の口を借りた死霊
真砂が多襄丸に手ごめにされるのを見ているしかない武弘。
多襄丸はいろいろと真砂を慰めます。
武弘は縄に縛られているため、何とか真砂に目配せで多襄丸のことを信じないよう訴えます。
ところが真砂は多襄丸の言葉を聞き入っているようで、武弘は妬ましさに身悶えします。
真砂は多襄丸の言葉に次第とうっとりとして、武弘はその時ほど美しい妻を見たことはありませんでした。
真砂はやがて「どこへでもつれて行ってください」と言い出し、さらに武弘を殺してくれと多襄丸にお願いします。
その様子に多襄丸でさえ戸惑い、武弘の意思を確認しますが、その間に真砂は逃げ出します。
その後、多襄丸は武弘の縄を解いて藪の外に消え、残された武弘は真砂が落とした小刀で胸を一突きして自決するのでした。
考察
どの証言が正しいのか判断できない以上、犯人を特定することはできません。
また『犯人はいない』説もあります。
ただそれだと面白味に欠けるので、ここでは個人的な考察をいくつか書きます。
矛盾点
事件の犯人が確定できないのは、各証言がバラバラでどれも決め手に欠けるからです。
特に武弘を誰が殺害したのかという点について、当事者である三人の証言は以下のように矛盾しています。
- 多襄丸:武弘と正々堂々と戦い、自分が殺害した
- 真砂 :多襄丸はいつの間にかいなくなっていて、縄で縛られた武弘を小刀で刺し殺した
- 武弘 :真砂に裏切られ、多襄丸が去った後に真砂の落とした小刀で自決した
武弘の証言については巫女の口を借りたものなので信ぴょう性は他の二人に比べて落ちますが、ここでは本人が証言したものとして考えます。
どの証言を正しいとするかで武弘を殺害した犯人が変わるので、それぞれのケースについて後述します。
多襄丸が犯人の場合
多襄丸は自分が武弘を殺害したと自供しています。
罪から逃れるために嘘をつくのであれば、普通であれば殺害していないと証言するはず。
また自分が殺害したと嘘の供述をする場合、かばう対象は武弘あるいは真砂になりますが、彼らに対してそんな義理をはたらく必要があるとは考えにくいです。
これらを考慮すると、多襄丸の証言は正しいように思えます。
強いて嘘をつくとすれば以下の二点です。
- 真砂に武弘を殺してほしいとお願いされた
- 武弘の縄をほどき、正々堂々と戦った
これらの嘘は多襄丸の心証を変えるに過ぎず、殺害したという事実に変わりはありません。
ただ、これはあくまで多襄丸の証言のみに焦点を当てた場合です。
彼の証言が正しいとして、ではなぜ真砂、武弘があのような嘘をついたのかという疑問が残ります。
二人にとって多襄丸は共通の敵であり、二人して彼が殺害したと証言すれば済む話。
総合的に考えると、多襄丸=犯人と考えるにはちょっと無理がある気がします。
真砂が犯人の場合
真砂が武弘を殺害した、と仮定した話です。
ただこれはかなり信憑性に欠けます。
真砂は二度にわたって気を失うほど精神的にダメージを負っていて、事実を見逃した、あるいは妄想を事実と捉えてしまった可能性は十分に考えられます。
具体的には以下の通りです。
- 多襄丸に武弘を殺害させた事実を隠すために、自分で殺害したと主張
- 夫に失望され自決された事実を隠すために、自分で殺害したと主張
前者であれば武弘を裏切った自分の負い目を隠せるし、後者であれば武弘に失望されたショックを軽減することができます
どちらにしても多襄丸から辱めを受けている自分も被害者であると酔いしれることで、心のバランスを保つことができます。
またポイントとして、真砂が証言した相手は人間ではなく、仏であるという点です。
仏相手であればどんな証言をしようと罪に問われることがありませんので、自分が殺害したと嘘をついても問題ありません。
それよりも自分の殺人を正当化した方が心の平穏は保たれます。
これらのことを考慮すると、真砂が武弘を殺害したとは考えにくいというのが僕の個人的な見解です。
ただ彼女の魔性のような魅力によって多襄丸か武弘、あるいは両方が狂わされた可能性が高いので、彼女がこの事件を引き起こしたといっても過言ではありません。
武弘が自殺した場合
犯人はおらず、武弘が自決したと仮定します。
パターンとしては以下のことが考えられます。
①真砂が辱められ、ショックで自決
②真砂に裏切られ、多襄丸にも憐れみをかけられたことがショックで自決
①の場合、多襄丸が自身の殺害を認めた点がどうも納得いきません。
恨みを持った真砂が多襄丸による殺人だと嘘をつくことを考慮しても、自ら進んでこのような嘘をつく必要はありません。
②の場合、真砂に裏切られ逃げられた武弘を多襄丸が憐れに思い、死体を見つけた時にせめて名誉を守ってあげようと嘘をつく可能性はあります。
その嘘をつくのであれば、せめて美談にしようと正々堂々と戦った、などと脚色することにも頷けます。
またこの場合であれば、真砂が武弘を殺害したと仏に対して嘘をつくことにも納得できます。
武弘を殺害するだけの理由があった、と自分を正当化して裏切った事実をなかったことにできるからです。
多襄丸の嘘の自白がどちらかというと納得しにくいかもしれませんが、真砂という共通の女性に惚れたことで武弘の気持ちが理解できたゆえの行動と捉えると一応説明できます。
個人的な考え:武弘の自殺
本書は読み手の見たい方向によって結末が変わります。
あくまで個人的な意見ですが、僕が一番スッキリする考え方は武弘の自殺です。
詳細は以下の通り。
- 多襄丸に心変わりする真砂
- 真砂に逃げられ、多襄丸に憐れをかけられたショックで自殺
- 多襄丸は共通の女性に心奪われた武弘の名誉を守るため、あえて自分が殺害したと嘘をついた
- 真砂は武弘を裏切った負い目を隠すため、仏に対して自分が殺害したと嘘をついた
結論が出ないとスッキリしない人のために、一つの答えとして提示させていただきます。
矛盾する点もあると思いますので、その点はご了承ください。
もちろん答えは考える方向性によっていくつもあるので、自分なりの答えをぜひ考えてみてください。
感想
真相は藪の中
この言葉に尽きます。
当事者三人の証言は食い違い、どの証言が正しいのか判断する材料はありません。
そのため武弘を誰が殺害したのか、という点でさえ確定することが出来ず、読者がそれぞれどのように解釈するかによって本書の意味合いは変わってきます。
こういう考察の余地が残る作品は普段あまり読まないのですが、結論の出ないもやもやというよりも考察できる楽しみがあり、読んだ後も楽しむことが出来ました。
一見、真砂が正気を失っているように見えるので、証言の信頼性は低く感じます。
一方で、多襄丸が武弘を殺害したと嘘をつくメリットが分からないので、この証言は正しいのか?
また武弘の証言はあくまで巫女を介しているので、こちらもまた信頼性が高くありません。
あえて僕なりの結論を上述しましたが、個人的にはこれ、という明確な筋書きを求めるというよりも、様々なバリエーションの筋書きを考える方が本書の楽しみ方として良いような気がします。
『新釈 走れメロス 他四篇』との違い
簡単に森見登美彦さんの『藪の中』との違いについて言及したいと思います。
本家『藪の中』では盗人と一組の夫婦の間に起きた出来事が中心になりますが、森見登美彦さんの『藪の中』では映画サークルが作った映画『屋上』に対する当事者、目撃者の証言が描かれています。
森見さんの場合、真実がどうか、というより映画『屋上』に対する当事者、目撃者の感じ方や思い入れがかなり異なっていて、それが積み重なることで『屋上』の見え方ががらりと変わります。
映画の内容はもちろんのこと、そこに込められた愛憎が歪んでいて、より情緒的に楽しめます。
おわりに
百年近く昔の作品ですが非常に読みやすく、違和感なく楽しむことができました。
ただ事実を受け入れるだけでなく、自分の頭で考えて物語を補完するのも読書の楽しみ方の一つとして良いと思います。
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